昭和五十六年十月十六日 朝の御理解
御理解 第四十四節 「狐狸でさえ、神にまつられることを喜ぶというではないか。           人は万物の霊長なれば、死したる後、神にまつられ、神に            なることを楽しみに信心せよ。」
 お道の信心を、前代未聞の信心であるとてうふうにいわれるのは、例えばこの四十四節の御理解の内容からもそれを感じる事が出来ますね。人間が神になるとか、神に祭られるとかというような事を説いた宗教が過去にあっただろうか。どこまでも神様と人間とのまあ距離というか、隔たりというものを、まあここでいわれる、天地人一如、天地の親神様の心の中に入ってしもうていけれるれ手立て、教祖はそれを生神とこう仰せられる。
 生神とはここに神が生れるという事であってと。自分の心ん中に生神が誕生する。その誕生する、その生神を、いわば、いよいよ本当なものに育てていくという事が、お道の信心だと思うんです。ですから、そういう信心を果たして頂けるもんかどうかと。此方ばかりが生神ではない、皆もそのとおりのおかげが受けられると仰せられるのですから。
 私共もそこの所を目指してもらう。それを楽しみに信心さしてもらう。ね、神になり神に祭られるというこを、そういう信心。
 私は昨日御神前に出るたんびに頂く事があったんですけれども、あんまり気にしてなかった。今朝からも又、御祈念中頂きますから、ははあ、これは何か下さろうとしとるなあと思ったんですけれども、目の見えない流行歌手がおりますね。奥飛騨慕情という何か歌を歌っておりますね。しんみりと。奥飛騨慕情となんか歌ってます。しんみりとした歌です。その奥飛騨慕情という事を頂くんです。はあ、分からなかったけど、これを置き換えてですよ、なら、奥金光慕情というふうに思ったらははあ、成程と、そして今日の御理解を頂いて合点がいったような気が致します。
 ね、いわゆる奥飛騨慕情というのは、慕う情ですかね。いわゆる私共が信心させて頂いて段々神様の有り難さが分かり、ね、それこそ、その時にゃ、どうした難儀な事であろうかと思うておっても、信心を段々続けさして頂いておると、難儀な事ではなかった、あれこそ神愛であったと分かる。あれもおかげこれもおかげという様な事が分かってくる。ね、いよいよ神様をお慕い申すというか、神様へ対するところの憧念心というものは、いよいよ募るばかりである。
 信心と一遍に言うてしまえば、只神様と人間、いうならお頼みしたりお願いをしたりする事だけが、神様やら信心の様に思うておったのが、その神様に自分もなっていけれるんだという、しかも様々な難儀と思うておったその難儀が神愛と分からせて頂くようなまあ手立てというか、合楽理念に説かれるその条理を尽くした理解を聞かせてもろうてね、成程とこう合点がいってくる。
 ね、どうしても信心はね、そのそういう情念が募ってくるような信心をさしてもらわなければいけないね。只、素晴らしいとか奇跡的なまあおかげ、御利益という事だけでなくて、我が心がいよいよ神に向こうていくという事を楽しむ。ね、それにはやはり、奥飛騨慕情であります。いわゆる金光教の信心の奥が奥がへと進んでいく。そこにはね、本気で神様が、氏子がその気になると、神様も又、本気になってそれを育てて下さろうてする働きが生れてくる。
 昨日、私は皆さんに、天が下に他人という事はなきものぞというあの御神訓に基づいて聞いて頂いたんですけれども。神様の目から御覧になると、もういうならば、世界総氏子と仰せられる様に、黒もなからなければ白もない。黄色人種もない。神様の目から御覧になると一様なんだ。だからその一様におかげを授けたい、受けて欲しいというのは、神様の思いであり願いである。日本人だけが助かればよいというのではない。
 そこで、私は、昨日のまあ御理解の中にも聞いて頂いたように、合楽で言われる合楽理念というものがどんなにまあいうなら素晴らしい事かという事は、昨日、聞いて頂いたね。ですから、何処にでも入っていけれる、いうならこの事は日本人だけにしか分からんとかね、外国の人だけにしか分からんといった様な事がない。いわゆる普遍性に富んでいる、これより以上普遍性に富んでいる宗教は又とない。
 その宗教、金光教をいよいよそれを現代風に説いてあるのが合楽理念である。ね、そういう、いうならば願いが神様の信条でございますが。そういう神様の信条に、こちらが触れてそれにいわゆる慕情をもって神様へ向こうて行く時に、神様も又、慕情にも似たお心をもって、その氏子の成長、氏子の信心向上を願うて下さる働きが起こって来るという事を、私は昨日本当にまざまざとそれを感じましたですね。
 というのは、昨日の御理解の中じゃ、私が朝も晩もライスカレーばっかり食べとるという話をしましたでしょう。私は、五、六日と思いよったら、昨日家内がもう貴方あれは何時からですかち、十何日になりますよと言う。なら十何日間、私はもう朝もライスカレーなら夜もライスカレーです。何にも他に食べませんでした、ね。よそにあのう出る、外出する事が一日ありましたけれども、それでもやっぱりライスカレーのある所を探してライスカレーを頂いた。
 どうしてこんないこうライスカレー、ライスカレーばっかり私は(ある)のだろう かという、まあ話を昨日さしてもらったんですけれども、ならば、ライスカレーは大変あれは、まあ辛いものです。ですからいろんな、私共のような医学的にいうならば、糖尿病なら糖尿病なんかの者にははいけない。けれども神様は、そればっかりをこう下さる。
 昨日も私は朝ここを下がっちからあっちへ下がって頂かせて頂いたら、勿論今朝もライスカレーを召し上がるでしょうというて、こういうけれど、いや今日から頂かんばいと私がいうたのは、一つも頂きたくなかったんです。昨日の朝から。それでまあ普通食にもどったんですけれども、どうした事じゃたろうかと、私は思いましたね。木へんに土という字を頂いたんです。こりゃ「と」いうふうに読むんですけど、こりゃ大分どういう字だろうかと思うたら、神様からね、「ゆずりは」と頂いたんです。こりゃゆずりはと読むかどうか知らんけれども、それから私はまあ感じた事でしたけれども。
 昨日の朝、石田先生達御夫妻がここにお届けけに出てみえましてね、もう親先生がライスカレーばっかりしか召し上がらないという事。実をいうと私は、御主人がやっぱお医者さんですけれども、糖尿病なんか、そんなでしょう。もう味噌のおつゆでも水のごとうすかつをしか食べさせんて、もう大変ライスカレーが好いとりますけれども、ライスカレーは絶対食べさせません。もう昨日の御理解を頂いてね、ライスカレーも食べてもよからう、味噌もまちっと濃ゆうして美味しゅう頂いてもらおうという事を感じ分からせて頂いたというお届けが昨日あったんです。
 だから、石田先生夫妻にその事を分からせる事のだけの為に、十何日間、私はライスカレーを食べたというてもいいでしょうが。ゆずりはである。そういう私のぎりぎりの信心を譲りたいという神様の願いがあった。いうならここで、皆さんが私の信心を受けて下さる訳なんですけれど、なら、これは私のぎりぎりの信心ですね。
 まあここでは、常識とかを超常識と申しましたり、道徳のもう一つ向こうに超道徳があるんだという様な事をまあ申しますが、いうならば人情から神情への、いうなら本当から本当の事を教える。栄養学から言うたならば、又は医学の上から言うたならば、そのライスカレーがどういう事になるのか分かりませんけれども。それを超えた信心、いうならば有り難く頂く心あれば障る事ないというその信心を、私は、石田先生夫妻に教える為に、十何日間、私はライスカレーを食べとったという事になると。
 なら、私の上に現われなさる神様が、なら石田先生御夫妻があの様に真剣に、もう本当に真剣にお道の信心を求めておられる。そこには神様も与えずにはおかん、ゆずらずにはおかんという働きがあっておる事を感ずるでしょう。ね、いうならば、合楽でそれこそ今頂きます木へんに土であって、心をいよいよ土の信心で頂いていく。
 今日の御理解でいうならば四十四節というたら縁起が悪いけれども、これをよんじゅうよんというたら良い事ばっかりなんだ。しじゅうしなんてん縁起が悪いというような観念をかなぐり捨ててです、一切が神愛、一切が良い事から良い事ばっかりだという、この四十四節はそういう生き方にならないと、自分の心が神になるという事にはならんと思う。
 我が心が神に向かうという事は、そういう観念を打破していくという事。今まで勉強した。その勉強をいっぺんかなぐり捨て本当の信心の、いわゆる真の信心を求めていくという事。そのぎりぎりの焦点はどこにあるかというとね、死したる後神になり、神に祭られるという事をという。しかも、それを楽しみにとこうおっしゃる。それを楽しみに信心せよと。
 そこでなら、奥飛騨慕情ですよ。金光、奥金光慕情です。金光教の信心のぎりぎりの所をいうなら求め、しかも一つの情念をもってそれを頂いていこうとする。昨日そういわれながら石田先生達がここでお届けされますのに、一つの新しいお初穂に、御願いと書いて「のどけ」と書いちゃるです。どうも声がこうかすれてからこうのどけだと。まあお医者さんの、まあ医学的に言や、まだ外に病名があるのかも知れませんけれども、御願い、のどけとこう書いてあります。
 私はそれを見てから、貴方は教祖様と同じ様な信心を神様が求めよんなさるようですねと言うて話しました事でした。のどけといや、皆さんも親しみがある。あの金光教の信心がいよいよ教祖の信心の大転期をきたのが、あの、 のどけという病気で九死一生の思いをなさった時からなんです。それに、その、 のどけを患ろうとんなさる。石田先生達の、なら、その御信心がこれからもっとより本当な、何かそんなものを感じたんです。その「のどけ」と平仮名で書いてあるのを見ましてね。
 だから本気で求めようとすると、教祖金光大神が自分の身の事を自分の身に、いうならばその難儀を感じられても助けて行こうとする働きというかね。ライスカレーというものが、貴方の何々病というのに毒じゃ決してないですよと、本当に有り難く頂く心さえあればを教える為に、私を十何日間という朝も晩もライスカレーばっかりで過ごさせて頂いた。どうした事であろうかと思うておった。
 石田先生の御取次をさせて頂いて下がらして頂いた。いよいよ御飯という時に今日も又ライスカレーでしょうというけれども、いや、もう今日はライスカレーは食ぶうごっない。どういうこつじゃろうかと思うたら、今いう、ゆずりはという事を頂く。そういう信心をゆずりたい。一生懸命、だから皆さんがね、本当に親先生のごとはならんでんじゃなくてね、親先生が持っておられる信心を、一つどうでもゆずり受けたいという、いうならば信心の焦点を置いてです。心いよいよ、木へんに土という字は何というふうに読むか知らんけれども、私は心をいよいよ土の信心に徹していこうね。そこからね、いうなら奥金光慕情の念もね、慕情の念ちゅですか、慕情も又頂けてくる。いうならば、ここにありますように、それを楽しみにという、楽しみの信心が出けてくると思うんです。
 金光教の、私はすばらしい事は、人間が神になれれる、その神というのは、勿論ね、キリスト教でいう神とか、又は神道でいう神とは違います。けれども教祖がいわれるその生神を目指すという事は、そういうね、一つの情念をもって、問題、事柄にあたっていくような、生き方をして、より今までの本当から本当を求めていく楽しみとか、喜びという、それこそ学者が眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞいと仰せられるように、もう学徳が身についていくという事が楽しい、より本当な事がわかっていくのが楽しい。何か石田先生の場合なんかそれを感ずるですね。
 本当に、まあいろんな勉強も随分してきたけれども、こんなすばらしい勉強があるだろうかというふうに感じとられるのじゃないでしょうか。より本当な事を分かっていく喜びね、そこに私は生神に向かっていく。いうなら死したる後、神に間違いなく祭られる、神になる手立てであるというふうに思います。為には先ずなら、簡単にいうと、一切をより有り難いと受けていくという生き方を、いうならば四十四という頂き方じゃなくと、よんじゅうよんという頂き方が総ての点に出けるような、いわば稽古であるともいえるわけですね。                                                   どうぞ。